不吉な黒塗りの車を間近で見ても、自分に忍び寄る危機を察知できる者はいない。高層ビル街では日本経済が小刻みに動き、排気ガスで曇る下界では雑多な人間が血管内の白血球のように流れていた。 家電量販店の店頭に飾られた薄型テレビが高音質・高画質を売りに洋画を映している。画面の中では、将来起こる天変地異から逃げる鳥の大群がアップになり、人々が不思議な顔でそれを眺めるシーン。危機に敏感な動物と鈍感すぎる人間の構図は、愚かな人間が未曾有の大災害に襲われる展開に繋がり、地球の環境破壊に警鐘を鳴らす作品テーマをシンプルに現していた。 子供連れの女性が少し足を止めてテレビを見つめ、すぐに歩き始める。大学生風のグループが映画のタイトルを言い当てながら談笑していく。頭のおかしい男がぶつぶつ言いながら通り過ぎていく。幼い子供の心臓移植手術の募金を求める集団が、より良い場所をポジショニングすべく早足で動いていく。普段通りの光景。多くの人間がお互いの生活を意識もせず共存する公的空間の在るべき姿。 黒塗りの車は交通流を妨げることなく移動し、テレビの前を通過し、交差点の赤信号に止められた。まるで忍者が擬車化したような希釈な存在感と異様な冷静さが際立つが、その異質を感じられる人間が日本に何人存在するだろうか。 信号待ちの集団は背景に溶けた危険物に気付かず、ただ浪費される時間を過ごす。携帯電話を片手にメールを送信し、きゃきゃと笑う女子高生の姿。乳母車を押す女性。営業と思しき中年男性。募金活動の準備をする集団。大学生たち。手を繋ぐ親子。突然、大声で歌い始める男。その瞬間。 「もう、俺たちは助からない。全ては手遅れだったんだ!」 流れる洋画で呟く主人公の顔。画面に向かいの交差点で生まれた赤い光が映り込み、音を立ててテレビ本体が薙ぎ倒された。ウインドウの破片が降りかかり、割れた画面がショートして沈黙した。 車から放出された衝撃は人々を無数の肉塊に分解しながら吹き飛ばした。赤い炎と黒い煙は周囲の車両や人々を一瞬で飲み込み、刹那遅れて爆音が一帯に轟き、ビル群のガラスが弾け雨と化して降り注ぐ。 遅れて悲鳴と怒号が一帯で飛び交い、人々はビルから飛び出し、玉突き事故が次々と起こり、停電が遥か彼方まで広がり、ビルからガラスといっしょに吹き飛んだ紙の書類の舞雪が死者を弔う。
ここで注意しておかなければならない。これから書かれる惨劇は、テロリストによる自爆テロや、それに続いていく流れとは、関係無さそうに見えて本当に関係無い。
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「そもそも大学入試問題の数学は、一部の有名私立や旧帝大等の難関国公立を除けば、過去の難関大学の入試問題を参考にして問題を作成していることが多い。別に真似をしているわけではなく、難関と呼ばれる大学の問題は参考にするだけの価値があるということです。最近はアホな大学が予備校に入試問題を委託していて、非常に嘆かわしい限りですが、彼らも商売とはいえ入試問題分析のプロですからね。何が言いたいかと言うと、この問題集に掲載されている問題は過去に幾多もの類題が出題されている良問、悪く言えば典型問題なわけです。即ち、この問題集を、まあ一回では足りませんから、最低二回、全問を解く。そうすれば自ずと、中堅私立で通用する、問題の半分はパターンが分かる。つまり半分はポイントが獲れる。大学入試数学とは、ここまで到達した学生のみで争われるレースです。半分は獲れて当たり前。それすらできない学生は最初から負けている。受けるだけ無駄。だから私は皆さんを、せめてレースのスタートラインには立たせます」 数学教師は、独自のアクセントを振るいながら黒板を背に熱弁している。日本人なのかも怪しいほど妖しげな発音は生徒たちを幻惑し、強制的に睡魔の渦からサルベージしていた。彼の声には若者のみに通用する安眠妨害音域が含まれているのかもしれない。 「だからね、これぐらいの初歩中の初歩の典型問題を素直に代入して解いている時点で、君はまだレースのスタート地点にも立てていない。以前に教えたことを復習できないなら、私にもどうすることもできません。君もご両親に高い学費を出させてここにいるのですから、予習はともかく復習はしないといけませんね」 女子は、約五分にも及ぶ数学教師の小言を、顔を真っ赤にしてうつむきながら聞き続けていた。 彼の授業では、当てられた問題を答えられない者はその場に立たされ、別の問題を解答するまで座らせてはもらえない。現在、クラスの中でただ1人立つ数学下手の彼女は、授業開始から30分、ずっと立たされ続けていた。たまに問題を指定されては黒板で解かされ、不正解のたびに叱咤され立たされ続ける。 黒板には問題と、女生徒の悪戦苦闘の計算が書かれていたが、乱雑な計算式は途中で破綻し、ただ計算ミスの泥沼にずぶずぶと沈むしかない惨状である。 「先生」 気まずい教室の空気を破るかのようにクラス委員長が手を挙げる。 生徒たちは、またお節介の委員長が何かするつもりだとか、女生徒を助けてあげてとか、教師vs委員長のガチバトルリターンズリベンジマッチファイナルピリオドだとか、とにかく犬猿関係の二人に注目する。 「今日、最寄のB駅の近くで爆発事件があったと聞いています」 「この授業とは関係ないトピックですが、気になっている人も多いでしょうからお話しておきます。はい、爆発は確かにありました。どうやら爆弾テロのようですね。死者は確認されただけで……」 委員長の言葉を、数学教師は補足して肯定する。 「それで、今日は午前中で爆発現場から遠い駅へ集団下校になり、部活動も全面中止ですね?」 「はい。そのとおりです」 「では、なぜ、私たちのクラスだけが今日、昼の授業を受けているのでしょうか?」 クラスが一斉にざわめきだした。それは誰もが胸の奥に秘めていた疑問を、クラスの声として委員長が代弁した瞬間だった。集団下校、さらに部活動も中止という状況下、いくら中高一貫の私立とはいえ、1クラスが教師の独断で授業を続けるなどありえるのだろうか。 別にこのクラスは別途設けられている難関国公立志望者用特別進学クラスではないし、最近巷を騒がせた必修科目履修漏れ高校にも含まれていない。そもそも特別進学クラスも既に帰宅しているのだ。いくら教師が授業に熱心とはいえ、今日のような治安に関わる大事件が起きた場合、生徒を早急に家庭に帰すのがより良い選択肢だという考えは当然だった。 「爆発が起きたから早く家に帰る、というのが妥当とは思えません」 「治安が混乱している以上、暗くなる前に家に帰りたいのが本音です。それに集団下校には警察も同行してくれたと聞いています。なのに私たちは、こんな少人数で学校に残っています。この学校にいることが最善だとは思えません。どうしても認めてもらえないなら、腹痛ということで早退させてもらいます」 そう言って委員長はカバンに教科書を積め、教師の前で教室から出ようとする。いつも真面目で堅物の委員長の怒涛の叛逆に、クラスの男子たちが妙な面子を保つため我先にと帰宅の準備を始め、女子もそそくさとそれに続く。 眼鏡をかけた優等生そのままの生徒たちが、絶対命令者である教師と委員長率いる生徒反乱軍のどちらにもつけず、おろおろしながら推移を見守る。推薦入試に関わる評価を気にしているのだろう。 「……」 教師は無言でその光景を眺めていた。余裕の笑みさえ浮かんでいる。 「あれ、ドアが開かない……?」 教室から出ようとした委員長から戸惑いの言葉が漏れる。クラスの男子たちがドアを無理矢理こじあけようとするが、スライド式のドアは鋼鉄と化したようにびくともしない。 「くっくっく、ようやく気付いたかバカ共め! お前たちはここから帰ることができないんだよ!」 教師の嘲笑が教室に響き渡った。 髪に指を突き入れ掻き乱しながら、顔を歪めて嗤う。それまで一度も見せたこともない醜悪な感情が湧き出る笑顔。男は乱暴にネクタイを緩め、教科書を黒板に叩きつけるように投げ捨てた そこにいるのは小言の多い数学教師ではない。教師の仮面を外し、正体不明の原理でドアを封印して生徒たちを教室に閉じ込めた、得体の知れない存在がそこにいた。 「か、帰れないってどういうこと!?」 「てめー、どういうつもりだ!」 「先公だからって、こんな悪ふざけしてタダで住むと思うなよ!」 流石に眼鏡の優等生軍団も異変に気付いて委員長率いる反乱軍に合流し、教師と生徒が教室の端と端でお互いに睨み合う構図が生まれた。異常事態を察した男子生徒の何人かは清掃用モップやバットを手に握り締めている。 「帰れないってどういうこと、って? 帰れないってこういうこと」 教師が指をぱちんと鳴らすと、背後から巨大な赤鬼が姿を現した。 鋼のように盛り上がる硬質の筋肉に、血色の眼窩、猛獣を思わせる巨大な口と牙、そして人間の皮を伸ばして縫った服。 「ようこそ、無知な子羊たち。ようこそ、世界の空集合へ。私の数式が成す領域へ」 目の前で展開される光景に付いていけず、衝撃の余り絶句する生徒たち。 「こいつは式神でね。私に似てなかなか有能だよ。そう、そんな優秀な、選ばれた私をあいつらは罵りやがった! くそっ、モンスターペアレント共めっ! フーリエも知らんくせに私を罵倒しやがって! まあいい。もう我慢はもう止めだ! 私はこの学園に王国を創る。キングは私で、お前たちは記念すべき奴隷一号だ! さぁ、ひざまづけバカ共! 逆らうものは死ね!」 それは正体を隠し続けていた陰陽術者が、初めて教え子たちに本質を晒した瞬間。それは同時に破壊的な方向性を持つ犯罪者が一線を踏み越えた瞬間でもあった。幼稚で未熟で、故に危険な――。 数学教師の背後から僕の赤鬼たちが次々と現れ、一斉に生徒たちに襲い掛かる。 悲鳴と絶叫が轟き、天井まで届く血飛沫が次々と上がった。
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ほぼ同時刻、生徒の大半が帰宅し、なぜか教師や守衛の気配さえ消えた校舎の中を、険しい表情で駆けている女生徒の集団があった。 彼女たちは新体操部の一団で、服装は白地に鮮やかな虹模様が凝らされたレオタード。女性特有の曲線を決して卑猥にせず、大花のように自身の美しさを強調せず、着る者の美しさと気品を引き立てる珠玉の衣装。それを纏う少女たちも例外なく美少女に含まれる容姿をしていたが、表情は皆一様に強張り、多くの者は悲痛な緊張さえ浮かんでいる。 集団には中等部の新体操部員も複数含まれていた。力強い肉体美を体現した高等部の女性たちに比べて、成長途上にある肉体特有の美しさと青さを、レオタードが纏めて別種の芸術品に昇華する。彼女たちの表情は高等部のメンバーに比べて大きく二つに分かれた。緊張で強張るか、自信満々かのどちらか。 彼女の手にはリボンやフープなど、一般的な新体操の道具が握られている。全員が一番愛称の良い道具を選び、この校舎の中を進んでいる。 「全員、ここで散開しましょう。絶対に無事にここに戻ること」 高等部キャプテンの少女が、使い慣れたリボンを握り締めながら言う。集団はここで幾つかのグループに別れ、別々のルートで目的地を目指すことになる。万が一、どのルートかで全員が行動不能になろうと、誰かが目的地に到達するための処置。戦力の分散は避けたいが、必要以上に固めるのもまた愚策である。
「私たちの目的は、学園に潜伏した陰陽術者の排除、および生徒30人の救出」
事件に巻き込まれた一般生徒の人数の多さに、少女たちの間に無言の暗い空気が流れる。一般人の救出は作戦の中でも特に危険が付き纏う。敵に狙われる格好の的であるし、錯乱して暴れ始めることもあり、逃げるために必要な運動能力もあまり期待できない。 「やるしかないってことだ。できる、できない、なんて考えても仕方ないし」 「これまでも、無理難題はいくつもありましたが、みんなで頑張ってきたじゃないですか」 バトンを握り締めた少女が強気の口調で言うのを受けて、横のフープを持つ少女が笑顔で皆を励ます。美しく頼もしい強気の表情と、見る者を安堵させる余裕のある笑み。しかし、上級生の彼女たちが全員を鼓舞する必要があるほど、今回の作戦は危険が大きかった。 しかし、危険が大きくとも、恐るべき人外の脅威に立ち向かえるのは彼女たち以外にいない。彼女たちは危険を承知で、平和を守るために人外と戦う道を選び、ここに集っているのだから。 この学園の中高の新体操部は、妖怪や悪霊と戦える能力者で構成された対異能者犯罪の部隊であり、全国から才能のある少女たちが集められていた。やがては全国で人々を守るために害のある異形と戦うことになる戦士の訓練所でもあり、教師の何名かは訓練官でもある。 しかし、今回は突発的に起きた事件のせいで対応が遅れ、さらに訓練官の教師とも連絡がとれない。訓練施設のある場所に犯罪者はいないという油断もあった。結果として多くの生徒が異能を持つ犯罪者に拉致され、教室に監禁された状態である。早く救出しないと命を落とす者がでるだろう。 「今回は私だけで戦うしかない。増援を待っていたら、きっと間に合わない」 キャプテンの言葉に全員が頷く。全員、気持ちは同じである。訓練施設とはいえ、彼女たちは全員一人前の能力を持ち合わせている。本当の訓練生は実戦には出さない。 「敵は数学教師のS。私たちの力量で十分制圧できる。冷静に対処すれば問題ない」 副主将の言葉に、全員が同じく頷いた。 「そうだ。その調子だ」 そのとき、廊下の陰から様子を見ていた赤鬼が、少女たちを制圧しようと飛び掛った。巨大な棍棒を持つ腕の筋肉を隆起させ、美しい戦士たちを叩き潰そうと殺意を剥き出しにする。 しかし、飛んできたリボンに絡み取られてそのまま墜落した。細いリボンは恐るべき強度で肉体を締め上げ、鬼は口から血と泡を吹いて悶え苦しむ。鬼を締め上げたのは中等部一年生の少女だった。 「悪い子は、お仕置き!」 少女がリボンを締め上げると、鬼の肉体は切断されて塵に変わった。 殺気の濃度から、わざと弱い鬼を当てて敵を油断させる作戦ではないことは感じ取れる。結論、数学教師は敵として弱い。 「なんか、大した式神じゃないね。中等部から助っ人を呼ぶまでもなかった?」 「でも、人質を守る役も必要でしょ?」 高等部二年の少女が緊張をやや解いて微笑む。中等部から呼ばれた可愛らしい後輩の助っ人たちも、敵の力量にやや安堵したのか、顔つきは普段の調子に戻っていた。 「よーし、行くよ、みんな!」 美しい少女たちの戦いは、ほぼ無人と化した校舎で始まった。
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血塗れのブレザーを着た少女が、一人佇んでいる。 「やれやれ、今まで私は目立たずに済んでいたのに、こんな派手なことをしたらお終いじゃない。でもまあ、いいかな。この世界にも嫌気がさしていたし、まあ、ちょうどいいかも」 教室には、クラスメイトたちの肉切れが床から天井、窓から壁から飛び散り、さながら天気は血の雨、血の瀧、ところどころ肉の雨、肉の瀧、血と汚物と臓物の匂い警報、脳漿を踏んで足を滑らす注意報、花粉も黄砂も問題ないが、何かがちょっぴり目に沁みる。 机も椅子も人間も完膚なきまでに粉砕され、原型を留めている人間は少女のみ。 「こんな弱い鬼で、私をどうにかできると思ったのか。クズめ」 右手で掴んでいた鬼の生首を握り潰し、少女は顔を歪めて嗤う。彼女を襲おうとした数学教師は、少女が指を振って魔法を使うだけで胴体と腰が捻じ切れ、頭からどろどろ溶けて崩れ落ちた。魔法のステッキを使うまでもない決着だった。 面倒なのでパニックのクラスメイトも皆殺しにし、学校にいた訓練官の教師たちも騒ぎに気付かれたので全員ミンチ肉に変えた。数学教師がきっちり結界を張っていたら外には露見しなかっただろう。 「せっかく、保護者対応でストレスを溜めた数学教師がちょっと変なことをした、ぐらいの問題として処理しようとしたのに、とち狂って襲ってくるんだもん。やれやれ」 クラスの委員長は壊滅した自分のクラスを眺めながらくすくす笑う。スポーツでよい汗を流したと言わんばかりの爽快な笑み。級友たちが死んだ事実は、彼女の心に何も響いていない。 「そろそろ、新体操部の可愛い戦士たちがここまで登ってくる頃か、うーん、まだ、この先公の放ったオート設定の式神を撃退したぐらいかな。このままじゃ、私が退治されちゃうな。あーあ、せっかく、魔法少女であることを隠してたのになー。残念。まあいいか。どうせバレるなら、思い切りやっちゃえ」 どうせ敵と戦わせるなら、式神のオモチャであはなく、本物の異界の魔物が良い。十年に一度か二度現れるレベルの魔物を景気よく千匹召還すべく、少女は術式を展開した。自分が本気で魔法を使えば世界の均衡が破れかねないのでこれまでは我慢していたが、たまには遊ぶのも悪くは無い。 それは日常生活に潜んでいた、天才的な才を持つ魔法少女の姿。才能は恐ろしく反社会的な方向にのみ向いていたが、クラスで委員長を務めるほどの社会性は持ち合わせていた。 「敵は30人はいる。かなり美人ぞろいだから、好きに料理すればいいよ」 異形の気配が部屋中に満ち満ち、獰猛に唸って少女の呼びかけに応えた。
■『新体操部少女隊散華』 1 2 3 4 5
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