「れ、麗っ!」 胸までムカデに覆われた麗の頭上に、天井にいたムカデたちが黒い雨となり降り注ぐ。巨大なムカデが麗の頭皮や顔に次々と張り付き、容赦なく噛み付いていく。愛らしい妹の顔が醜悪な蟲に覆われて牙に裂かれるのを見て、澪は絶叫した。 麗の愛らしい頬が無残に血に染まり、苦悶の声を漏らした口にまで、ムカデは潜り込んでいる。眼窩の片方にはムカデの胴が生えていた。麗は顔の蟲を払いながら、声ならぬ声で絶叫する。そして失神したのだろうか、そのままムカデの海に倒れてしまった。 ムカデたちは倒れた妹を覆い付くし、見えなくなった。どこか致命的な血管を食い破られたのか、ムカデの山から鮮血が吹きあがる。かん高い悲鳴を上げる澪の背後に、闇から浮かぶように人の気配が現れた。 「安心するがいい。その小娘はまだ生きている。もっとも、お前が妙な態度をとれば今すぐにでも殺すことができる。妹が生きるも死ぬもお前次第だということだ」 ムカデの大群に囲まれながら攻撃されないその男、その事実と男の言葉が示しているのはただ一つ、その男こそがムカデを操って姉妹を攻撃してきた、敵方の術者「蟲使い」であるということである。 「お前がこのムカデを操っているのか」 澪の声に含まれた濃厚な殺気を、出現した黒覆面の男はさらりと受け流して肩で嗤った。澪は脳天が沸騰するほどの怒りを覚えているが、妹の命を切り捨てて攻撃を仕掛けてくることはないと見抜いているのである。もっとも、澪が彼を観察する目は刃のように鋭く、常人ならば睨まれただけで震え上がるほどではあるが。 「ああ、その通りだ。と言うたところで証にもならんか。どれ、私が蟲たちを動かしているという証を見せておこう。妹が本当に生きているか否かはお前も知りたいであろう。くくく」 男は手で印を組み、金属が擦れるような甲高い声を上げた。それは昆虫の羽根のように耳障りでぞくぞくと寒気を呼び起こす、果たして人間にこのような声が出せるものなのかと不思議に思えるほど非人間的で無機的だった。 しかし虫たちには指令が伝わるようで、ムカデは潮が引くかのように洞窟の闇の中に消えていく。それでもまだ残っていたムカデは元より在る泥に戻り、澪の足元にねっとりと山を作っていた。 あれほど大量に洞窟を覆っていたムカデたちが、本当に一匹も残さずにいなくなってしまった。現象を観察する限り、男が蟲を操っているというのは嘘ではないらしい。 「幻術か?」 険しい声で問う澪に、男は低い声で応える。 「泥を媒体とした幻術も含まれてはいるが、大半は正真正銘、森にいた本物の虫たちだよ。今は術にかかり、私の言うことだけを忠実に行う頼もしい兵たちだ。ふふふ、そぉれ、お前の妹はそこに無残に転がっておるわ」 男は澪を嘲りながら、ふい、と顎で闇を指す。澪は男をきっと睨んで、男の動向を観察しながらゆっくりと、泥の中で倒れている麗に近づく。 「……み、澪姉……」 「麗、少しの我慢よ。すぐに私が癒してあげるから」 「澪姉……ごめんなさ……私、やっぱり……足、引っ張っちゃった……」 麗の足は白い長足袋はおろか肌の大半を削ぎ取られており、赤黒い血で濡れた筋肉繊維や白い脂肪はもちろん、脹脛や指などは骨の一部までが露出した惨憺たるものだった。 朱色の天衣は百足の刃でズタズタに引き裂かれ血で黒く染まり、裂けた天衣から露出したへそが呼吸をするたびに動いた。 腹が動くと傷から血が噴き出て流れ落ち、麗は苦痛に呻きながら顔を歪める。手は負傷してはいるが十分動かせそうである。胸当てのお陰で乳房などはムカデの牙にかからずに済んだようだ。しかし、深緑の装甲に無数に付いた刻み痕は、ムカデたちの攻撃の凄まじさを物語る。 澪は目に涙を溜めながら、麗を元気付けようと微笑みかける。 「澪姉……そんな顔しないで」 しかし、付き合いの長い麗には分かる。澪がその笑顔を作るのに、どれだけ無理をしているか。自分がどれだけのダメージを受けているか、把握できていない麗ではない。 苦痛で引き攣る麗の右目は眼球がなく、ぽっかりと暗い空洞になっており、赤黒い血液が噴いて流れ落ちている。 虫による破瓜という辱めを受けた陰裂は膣粘膜は愚か子宮まで噛み砕かれた恐れがあり、出血が非常に激しい。多少の切り傷や擦過傷ならさておき、全身に深く刻まれたこれだけの傷に術を施したところで、どこまで治癒できるか怪しいものである。麗は二度と戦えないかもしれない。 「うぐ…ぁ……あ゙あ゙あ゙あ゙!」 突然苦しげに暴れ始め、血を吐く麗。 「どうしたの! 麗」 「げほっ!ごほっ! み、澪姉……喉の奥で、何か暴れてる……!」 麗の訴えに澪はぎょっとして、蟲使いを見る。 「ああ、察した通りさ。その小娘の喉の奥にはちょいとした虫を一匹仕込んでいる。お前がその娘を癒そうとしたり逃げようとすれば、虫がそいつの喉を食い破るということだ」 「こ、この外道め!」 神鉾を構えて蟲使いに迫る澪。 「今すぐに麗の中から虫を取り出せ。さもないとこいつで貴様の頭を叩き割る! 麗は死ぬかもしれないが、その瞬間にお前も必ず死ぬ。私は本気だ。死にたくなければ……」 鬼気迫る顔の澪を見ても、蟲使いは余裕を崩さずにくすくすと笑った。 「どうやら、お前はまだ自分の立場が理解っていないようだ」 男が不気味な金切り声を上げると、泥が再びざわざわとした気配の塊と化して澪の足元で蠢いた。先程の泥をムカデに変えたのと同じ術だが、あまりに一瞬の変化で澪はやはり対応できない。 澪の中の常識では、あれほど強力な術は相当の呪文を唱えなければ発動できないものだが、男の力量は澪のそれを大きく上回っていた。
「待つのだ弥助よ。まだ殺さずとも良い」
蟲使いの背後から聞こえてきた氷の如き冷たい声に、弥助と呼ばれた蟲使いはびくりと震えて気配を強張らせる。雑多な小波を全て掻き消さんばかりの余韻を残し、傲慢と冷徹さを併せ持つしゃがれた声。蟲使いは虫責めを中断し、その場にさっとひざまずいて深く頭を垂れた。 「親方様がそう申されるのなら、私めは従うのみでございます」 弥助がキィ、とけたたましく鳴くと、蟲の大群は一斉に後退し始めて洞窟の闇に融けこみ、気配すら残さず煙のように消えてしまった。蟲使いの存在など気にもしていない様子で、闇の奥に存在している男は姉妹を観察している。 蟲使いほどの高等な術者にさえ尊称をつけて呼ばれるその存在が何者かなど、改めて考えるまでもない。ここ一帯を支配する戦国大名にして、姉妹の一族を襲って虐殺し、集落を焼き払った元凶である甲世(かぶとよ)氏の世継ぎである甲世直政その人である。声に対して歳はまだ若いはずだった。 風の噂によると直政は邪教に身を堕とした狂人であり、人の心を操る術を用いて血族や家臣団を支配し、民は貧困で餓死寸前ばかりか邪教の儀式の生贄として虐殺しているという。 姉妹の一族と同じように、多く者が命を落としている。姉妹にとって、そして人々にとって絶対に許すことのできない敵が、あの薄い闇の壁の向こうの、鉾を伸ばせば届くところにまで近づいてきているのだ。 「くっ、甲世直政ァ! 父上、母上、皆の仇!」 澪は鬼のような形相で直政を睨むが、見えない鎖で縛られているように身体は動かない。直政の術に縛られていると気付いたときには、四肢をもがれた虫のように動けなくなっていた。 直政は術者として澪よりも数段上のようである。しかし、そんなことは澪は分かっていた。勝ち目は薄いと分かっていて、刺し違える覚悟で麗とここに乗り込んだのだから。 「私と勝負しろ直政! 貴様の首を皆の墓標に見せて、踏みつけて肥溜めに叩き込んでやる!」 「俺の首を取るとは、なかなか面白い座興だな。首を切れば何日で完治するかは、試してみたいと思っていたところだ。どうだ弥助。お前が見てみたいと申せば、見せてやらんでもないぞ」 澪の言葉に対して奇怪なことを言うその存在は、一枚の薄い闇の向こうでくつくつと嗤う。 「親方様、このような者相手なら、どうかこの弥助めの首をお使いくだされ。果たして、斬首がどれほどの快楽やら及びもつきませぬ」 「はっはっは! お前は愉快な男だ! なぁに、人間を十人も食らえばすぐに治るだろう」 この狂人らしき大名と家臣の蟲使いを会話を、澪は唇を噛み締めながら聞き入っていた。そして確信する。狂っているのか、また民のことを考えているのか、などという問題ではなく、もうこの勢力は人間の側に属していない。 姉妹たちの一族が人間を超える能力を有しながら人間を守ろうとしていたのに対して、敵は文字通りに人間の命を虫けらにしか考えていないのである。彼らが支配圏を拡大すればどれだけの犠牲者が出るのか、まして京への上洛を許せばどれほどの力を得てしまうのか想像もつかない。 「まあいい、虫はお前だけに決めた。もう一匹の方は要らん」 甲世直政の気配が薄れていき、おぞましい嫌悪感が背中から引いていく。 「それはどういうことだ! 逃げるのか直政!」 そのとき、無言の麗から凄まじい絶叫と水音が迸り、喉に開いた穴から壊れた笛のように空気が鳴った。 「れ、麗っ!」 首に巨大な穴を開けられ、鮮血で顔を染めながら虚ろな顔をしている麗の瞳に、もはや光はない。命が永遠に失われた少女の首からは、わきわきと黒い触角のようなものが突き出る。そして露出した首肉に足をひっかけて顔を出す存在があった。 弥助が麗の喉に仕込んでいたという昆虫が宿主の喉を食い破り、とうとう外に出てきたのである。そして、その昆虫であるゴキブリはカサカサと麗の首から胸の辺りに這い回るや、飛び立って洞窟の闇に消えていった。 澪が絶叫する中、ムカデとゴキブリに食い荒らされた麗の死体からは、どくどくと赤黒い血が流れ出している。
………………… ………
「親方様、言われた通りに、もう一人の娘は逃がしておきました。しかし、それで良かったのでしょうか?」 「ふむ、ご苦労であった。あの娘がこれからどうするか楽しみだ」 「あの娘は将来、思わぬ難敵として我らの前に現れるやもしれませんぞ」 「ふふふ、難敵として現れるだと? はっはっはっはっは! そうでなければ困るのだ。そのためにわざわざ逃がしたのだからな! あの5年前に隠れ里を滅ぼしたとき、あの姉妹だけをわざと殺さずに生かしてやったのと同じく、今回もそのために生かしてやったのだ!」 「な、なんと……!」 「あいつはもう、俺を殺さない限り俺の支配から逃れることはできん。一族も妹も殺してやったのだからな、俺を殺すまでは修練を積むか、仲間を探すか……いずれにせよ、そこに幸などあるわけがない。あの娘は籠の中の虫なのだ! 籠から出よう出ようと暴れるのを、俺はじっと観察して楽しむのだ! 次にあいつが仲間を連れてきたら、仲間は皆殺しにしてあいつだけは助けてやろう。一人でやってきたら、嬲りものにして命をまた助けてやろう。また、傷を癒して俺に挑めるようにな! はっはっはっは! 」 「あの娘が、親方様と同じ修行を二十年積もうが、今の我々にさえ勝てませぬぞ。素質が違いすぎます」 「だから良いのだ。妹や一族郎党の仇討ちという縄に縛られて、勝てない相手に何度でも戦いを挑んでくる様子は、まるで奴隷のアリのようで見ていて面白い」 「……」 「座興だ……。あやつの戦いそのものが、俺の天下取りまでの、長い長い座興なのだ……」
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枯れた木の枝を杖代わりにし、澪はボロ雑巾と貸した衣を肌から垂らしながら、山中を裸足で彷徨っていた。あの洞窟を放り出されてもう三日三晩、どことも知れない森の中を歩いている。雨に打たれ、獣に襲われ、食べ物もない。 杖を支える腕の力が抜けて、泥の中にばしゃりと倒れる澪。一族の敵討ちの、あまりに無残な敗北の代償。妹は殺されてしまい、澪は今、ここで野垂れ死にしかかっている。このまま餓死するのが先なのか、獣の餌になるのが先なのか。 「私は、まだ死ねない……麗や、みんなの仇をとるまでは……」 力を振り絞って泥の中を這いながら、澪は一族の顔を思い浮かべて生きる力に変える。父の顔、母の顔、友人の顔、そして、麗の顔。 「……次こそは勝つ……」 泥と涙で顔をくしゃくしゃにしながら、澪は立ち上がり、そしてふらふらと森の中に消えていく。逃れることの叶わない蟲籠のような運命に捕らわれて、翅を失いながらバタバタ足掻く蝶々のように、生かされて。
『救世主ミリルのお仕事』 第3章 −甲世の城(前) 歴史の分岐点− 3-1「蟲の穴」 3-2「甲世の城」 (現在ページ) 3-3「鈴虫」 3-4「歴史の分岐点1」 3-5「歴史の分岐点2」 3-6「歴史の分岐点3」 3-7「蟲の海、白き炎」 3-8「蟲の海、煌く炎」 3-9「蟲の海、目覚める炎」
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