そこは甲世直政の存在する場所から、少々距離のある洞窟だった。 日光が届かない深層のさらに奥。暗くて湿気の多い暗闇に濃密に蠢いているのは、何百何千匹という数の百足の大群。赤、黄色、橙色、数多くの毒々しい色をした表皮が麺類のように絡み合う。 お互いの節足や甲が擦れた、低くて乾いた音が狭い空間に飽和し、巨大な生物の歯軋りを思わせる音色を奏でる。 彼らの下では、人間1人分の骸骨がバラバラにされたまま朽ち果てていた。骨の細さからして女性のものと知れる。それは、甲世に挑んだ炎使い一族の美人姉妹の妹、氏無き少女、麗の亡骸だった。 戦いに無残に敗れて蟲に食い殺され、肉の欠片も残さずしゃぶり尽された彼女は、最後の骨さえ原型を留めず散らされ、もう生物の形さえしていない。魂も意思も消失した、無機物の破片に過ぎないのだ。 戦いに敗れた者が死体となり、野生動物の餌食になるのは、この戦乱の時代では珍しくない。人権が大きく叫ばれて死刑執行さえ左右の論争の対象となるのは、まだ遠い先の未来の話である。 今は合戦が起きる度に死体には無数の野犬が群がり、カラスが啄ばみ、虫が繁殖する。そして伝染病を流行らせ、さらなる犠牲を生んでゆく。 しかし、ゴキブリと百足に食い殺された麗は、この時代の未熟な生命の価値観においてさえ、あまりに非道な死に様に違いない。虫の糞と泥に塗れた衣の切れ端と、柄の真中から折れた武器が、周りに広がるバラバラのカルシウムの欠片をして「これは生きた人間だった」と訴えているようだ。 そして、百足たちは食い尽くした餌には興味すら持たず、ただ蠢いていた。間の抜けた熊が、またに巣を間違えて入ってくるので、それを待ちながら。……しかし、無思考に思える彼らも、鋭敏に感じ取っていた。彼らの主、甲世直政が本気になり、『解放状態』となったことを。 彼が解放状態になれば、異能の影響はこれまでの比ではなくなる。「生命を自由に改造する」という甲世の能力が全開にされれば、周辺のあらゆる生態系が被爆して変異し、食物連鎖のピラミッドは猛速で再構築され、過程では多くの種が生存を賭けて激突することになる。 能力を使用すること自体が、まさしく自然への冒涜であり、挑戦であり、宣戦布告である。余波は瞬く間に大きく広がり、系の全ての生物は否応無しに再構築に巻き込まれ、種の存亡をかけた全面戦争に突入するしかない――それが意図したものであれ、無意識であれ。 甲世の能力は環境そのものを変化させる。多くの新たな生物を産み出す代わりに、多くの生物を絶滅させてしまう。多くの『生きる』幸せを生み出すが、多くの『無駄死』の不幸も生む。 それは、まさに神の領域としても過言ではない能力だった。 ”ゼイ・ゼアー・ゼム・ゼアーズ” <無数の生きるものは・無数の生きるものの・無数の生きるものを・無数の生きるもののもの> 300年後の"甲世の姫将軍"にそう名付けられるこの能力は、この時代には定義はおろか名前さえ存在していない。ただ、甲世という存在が能力を現す全てである。 甲世直政の能力に晒された百足は一斉に細胞分裂を開始し、1匹が300匹にもなり、増殖を続け、洞窟が満杯になり、それでも増殖し続け――洞窟から溢れ出し、森に雪崩れた。 洞窟が黒い血を吐くように、数千万数百万の蟲が洞窟から噴き出し、森に広がる。あちらの洞窟でも、こちらの洞窟でも、山中が黒い血を流すように、埋め尽くし、覆い尽くし、飲み込んでいく。
………………… ………
「この姿に戻るのは何年ぶりになるか。この肉体に初めて化けて以来であるから、それでも10年前か。ふむ、黒衣の客人との邂逅は、俺をして懐かしいと思わせる。それは認めざるを得ぬ」 決して過去を振り返らず、目の前の未来と更なる欲望を求める甲世直政は、懐かしいという感情を抱くことが無い。それでも思い返すたびに感慨深い「進化の日」、直政が魔法改造人間に変わった日だけは特別な感情がある。 そして、今の直政の姿を見た巫女の少女戦士団は皆が等しく絶句し、動くことができず立ち尽くしていた。巨大斧、聖剣、光の矢等を握り締める手にも汗がじんわりと浮かぶ。雪と朱の衣に生理的な嫌悪感を含む温い風が纏わりつき、鎧の隙間から肢体を撫ぜて、半透のマントがやんわりと揺れた。 顔には純粋な動揺と驚愕が張り付いていた。それは理解し難い未知の存在に遭遇した者の顔。目の前に存在する非現実な存在を前にして、いかに自分の理性との整合をとるかを考える顔だった。 「これこそ甲世の解放状態! 全知全能の神の代行者にして、この島国を治める最強、最高の、魔法改造人間の姿であるぞ!」 甲世直政は既に人間の形をしておらず、5メートルほどの巨躯の異形に変化していた。 白髪化した髪の隙間からは、骨色の角が頭皮を突き破りながら伸び、肌は鋼鉄のように黒硬く変化し、目は血の池のような赤褐色。頬まで裂けた口から獣の牙が乱雑に生え並び、樹木のように枝分かれした舌から涎が汚らしく零れ落ちている。 手は肩から左右に5本ずつ伸び、腹部は妊婦のように膨らみ、背中には昆虫の翅を思わせる半透明の翼が8対。下半身は、大蛇の下半身と化して地を乱暴にのたうち、うろこの隙間を縫うように青白い人間の足が百足のように生えて蠢いている。 「くっくっくっくっく、はっはっは! もう人間の家臣等必要もないわ! さあ、行こうぞ、俺から『無限に生まれるものたち』よ! 創り変えようぞ、愚かしい俗物しかおらぬ、地を! 理を書き変え! 我々の思うが侭の天下を! 甲世の旗の下に!」 直政の目からは真珠大の赤い涙がぽろぽろ零れ落ち、口からは涎がだらだらと垂れ落ちる。地に落下した涙と涎は地表を這うように広がり、沸騰するように泡立ち、ミジンコのような微生物が中で発生した。 微生物は瞬く間に巨大化し、虹色の翅を持つ蜂や蛾が体液のたまり場から飛び出し、植物の蔦やカビの胞子が噴き出し、チョウチョウの羽を生やした手のひらサイズの人間が生まれた。それは西洋で妖精と呼ばれる生物に酷似していた。 あまりにも見苦しい、醜い、新たな生命誕生の光景。涙と涎も、血液も排泄物も、解放状態の甲世から漏れ出たものは全て別の生物に変わり、今ある生態系を潰して新しい生態系を築いていく。 直政の周囲は瞬く間に奇怪な原色の花畑に変わり、そこでは昆虫だけではなく、半分ゴキブリの少女、羽の生えた眼球、顔から手足の生えた男の首、触手の生えた樹木の芽、馬と牛の顔を持つ赤子などが蠢いていた。 そして、直政の足元の泥の微生物が変質し、泥は無数の百足に変化して地を這い回り始めた。かつて、澪と麗の姉妹が犠牲になった、泥から化けた百足。『蟲使い』の異能を持つ弥助に操られていた『泥に擬態する百足』。あのときは別の魔法改造人間による幻術も作用していたが、それらは紛れも無く本物の、この付近に生息している百足である。 無数の異形の世界が、ゆっくりと、世界を溶かすように広がり始めていた。 「どうだ、俺の力は! 神に選ばれた、神の代行者の力は! 恐れよ! 怯えよ! 神と、『新月』と、甲世幕府が天下をとるのだ!」 『新月』とは、ある目的のために作られた組織の名であるが、今の巫女の少女戦士団には知るはずの無いことであり、結局彼女たちは最後まで、『新月』の詳細を知ることはなかった。 甲世の城から、黒い靄が噴き出た。城中が突然炎上して黒煙が上がったように見えたが、そうではない。何千何万の虫たちが、城という繭を食い破るように外に飛び出していた。主を守るために蟲が動いたことは違いないが、数は夥しく、いつまでも城から飛び出し続ける。それは、城の部屋や廊下など、全ての空間が虫で飽和していたとしか思えない数だった。 ――とうの昔に、城は人間の住処ではなくなっていた。 「う、うええっ!」 「これが、甲世の正体……なんておぞましい……」 少し距離をおいた巫女の少女の中には、あまりの光景を見せつけられて嘔吐するものさえいた。そして。平気な顔をしている巫女でさえ、吐くことはなくとも、人間が含まれない異形の生態系に飛び込むのを躊躇う。異質の存在に対する拒絶反応が、彼女たちの正義の心までもを侵食していた。 鬼のようでなく、虫のようでなく、蛇のようでなく。 人間の姿を失った、人間ではない存在。 どこまで生物を混ぜこぜにすれば、ここまでの怪物が生まれるのだろうか。合成獣を思わせる巨躯の異形に対し、少女たちは気圧されていた。 表情に浮かぶのは驚愕、動揺、憤怒、嫌悪。 そして、人間であることを捨てた眼前の敵への、憐憫。 ――かつての、神童。武神。天人。幼少の甲世直政を形容する言葉は、いずれも能力の高さを示していた。巫女の少女たちには、何が原因で彼が人間を捨てることになったのかは見当も付かない。しかし、異形化した彼を直に見て、考えずにはいられなかったことがある。 もしも、甲世直政が人間であることを捨てなかったら……。 もちろん、天下を取れた等と考えるのはおこがましい。この時代では能力が高くとも、生き残れるとは限らない。しかし、それでも、たとえ歴史に名を残せなくとも、良い武将になっていたのではないか。 しかし、それが目の前の異形を殺さない理由にはならない。その物体は既に人間だけではなく、今在る全ての生物にとっての敵だった。 「お前の好きになどさせるものか! 地獄に叩き落してやるわ!」 「魑魅魍魎の塊め! 私たちがお前を滅ぼす!」 「私の弟と妹は、こんなやつのために……よくもぉ!」 目の前で蠢き、のたうつ異形の魔法改造人間を前に、クリスタルで強化された少女戦士たちは戦闘斧や聖剣を構え、無数の光の矢を弓につがえる。 雪と朱の色のレオタードが赤白い軌跡となり、半透明のマントを翻し、珊瑚色の鎧を鳴らし、かん高い声を上げて前衛の少女たちが甲世の元に突撃した。 同時に無数の光の矢が直政本体と、城から噴き出した蟲に向けて発射された。 巫女たちが持つ武器はいずれも発光してエネルギーを増し、攻撃力は最大まで高められていた。手に余るような巨大な武器を持つ者も、悠々とそれを使いこなして。 厳しい修行の成果を全て出し尽くすように――。
………………… ………
「父上が『解放状態』になった……。この辺りも、すぐに崩れちゃうね」 美しい衣を纏うもう1人の甲世の血族、鈴虫は遥か遠くの戦況を眺めながらそう呟いた。幼い顔に浮かぶのは温和な笑みであるが、目は油を塗りつけた黒真珠のような異様な輝きを見せている。 「そろそろ、私も戻らないといけないかな」 そう呟いた鈴虫の背中から、べりべりと音を立てて無数の羽が生え始めた。 白鳥のような白い羽、鴉のような黒い羽、昆虫を思わせる半透明の羽に、湖の藻の空気袋まで、メチャクチャに背中から飛び出してくる。風が巻き起こり、衣を舞い上げ、鈴虫の毛の無い股が露になるが、この場にそれを気にする者はいない。 瞬間、鳥の大群が、一斉に山から飛び立った。そして、地の底から、地獄の獣が唸るような音が響き渡った。まるで巨大な手で箱庭が揺すられるように、地震が大地を蹂躙し、森林は音を立てて倒れ、山から剥がれ落ち、岩がごろごろと斜面を転がり落ちてくる。 マグニチュードに換算すれば7.0にもなる揺れは、大地に立つあらゆる存在を押し倒していくが、鈴虫は既に宙に逃れて影響は無かった。鈴虫の視界に映る下界は振動で激しくぶれ、山は音を立てて動き始めて崩れ、人家は潰れ、地表にヒビが急速に広がり、それが至る場所で確認されている。 「ああ、感じる……父上の力。黒衣の神様の悦び」 この震える地上と同じく、悦びに打ち震える姿を感じる。鈴虫は無邪気な笑顔で上空に舞い上がり、合戦場へ向かって飛翔した。
『救世主ミリルのお仕事』 第3章 −甲世の城(前) 歴史の分岐点− 3-1「蟲の穴」 3-2「甲世の城」 3-3「鈴虫」 3-4「歴史の分岐点1」 3-5「歴史の分岐点2」 3-6「歴史の分岐点3」 (現在ページ) 3-7「蟲の海、白き炎」 3-8「蟲の海、煌く炎」 3-9「蟲の海、目覚める炎」
|