11:20。東都西大学_工学部三号館
よく晴れた爽やかな午後、学生が闊歩する東都西大学の工学部棟。災防研究所という地震・洪水対策の最先端施設がありながら、地震で一番早く倒壊するのは建築学科棟と言われている。 建物が老いているのは歴史の永さを物語るが、問題も多い。 工学部三号館の廊下を、2人の女性が手を繋いで歩いていた。1人は大学の職員証を首から提げているが、もう1人は小学生にしか見えない少女である。 「この大学内の『統勝一全教会』の信者数はどうなってるのかしら?」 「確定できた者が95名、隠れ信者を含めれば200名。勧誘目的のダミーサークルは3つ。いずれも学外の人間を中心とした組織であり、大学公認のものではありません」 職員証を持つ女性はソバージュの長い髪を揺らし、鋭角で構成された端整な顔に三角形の眼鏡。表情は仮面のような無表情。紺のスーツも魅惑的な体のラインを隠せていない。 彼女はこの大学で准教授の地位にいる研究者だった。持つ情報は学生の比ではない。 「ふふふ。そいつらを貴女の力で排除するのはどう?」 まだ年端もいかない少女は、建物内にもかかわらず麦藁帽子を深くかぶり、フリルの付いた白いブラウスに赤いミニスカート。顔は帽子の陰に隠れて見えない。 外面はまるで人形のようであるが、学内のカルト組織の情報を聞く姿に可愛らしさは無く、異様な殺気が漂っていた。 「ここでの私は研究者です。高分子有機体の講義や論文作成はできますが、宗教団体やセクトを物理的に排除する力は持ちあわせておりません」 「ふむ。して、私たち『天球星霊教会』の信者数は?」 麦藁の影から覗く少女の幼い唇は、得体の知れない笑みを浮かべて歪んだ。 研究者の女性は少女への敬意を示しながら、淡々と報告を続ける。 「現在、413名です。来るべき『最後の審判』に備え、勧誘活動を広げていると青年協から報告がありました。皆、『第二のふるさと』に向けて励んでおります」 彼女たちの会話は人間の耳には聞こえない微小な声で行われている。 周りを歩いている学生たちが異様な会話に気付くことはない。 しかし、鉄仮面の准教授が子供と手を繋いで歩いている光景はあまりにミスマッチである。この階にいるのは学部4回生や大学院生で准教授がどういう人物かを知る者ばかりだ。 指導者が建物内を子供と移動する様子に、学生たちは彼女たちの関係を噂する。 「誰、あの子、先生の隠し子? 先生って独身でしょ?」 「いや、親戚の子って話。都合で今日一日だけ部屋で預かるんだって」 「おいおい、あの鋼鉄女に子供の世話なんかできるのかよ……」 学生たちの声を気にも留めず、2人は目的地の部屋に歩いていく。互いの信頼関係を示すように、手は難く握り締められたままだ。 「聖戦士キロリン、ここは特異な場所ね。貴女はここで研究を?」 「部屋はこのフロアにあります。研究は裏の実験棟が主になります」 キロリン――奇怪な名前で呼ばれた准教授は当然のことのように頷く。
やがて目的の部屋に到着する。部屋の札には彼女の名前と、研究室の選考の領域名が書かれていた。買って知ったる自分の部屋に、しかし彼女は妙なノックをした。 こん、こん、こんこんこん、こん。 自分の部屋であり、鍵もあるのに、まるで内部の誰かに気を使うかのように。 部屋のにいる何者かに自分の存在を知らせるかのように。 自分のみが使用する部屋に入るのに「開けゴマ」のようなリアクションをする。 音も無くドアが開くと、2人は滑り込むの用に部屋に入り、ドアを閉める。ほどなく、ガチャリと内側から鍵がかかった。 准享受と麦藁帽子の少女を出迎えたのは、黒いスーツ姿の2人のアジア人と、グレーのスーツを着た白人の男だった。3人とも国籍はソ連である。 彼らの横には、大きな2つのスーツケースがあった。1つは彼らの私物が入った荷物ケース。もう1つは少女たちに引き渡すためのものだ。取り扱いを間違えば、辺りが吹き飛ぶ兵器である。 白人の男は細い身体を固まらせ、まるで姫に忠誠を誓う騎士のようにひざまずく。 2人のアジア人の部下もそれに倣った。 麦藁帽子を被る少女は薄く嗤うと、長旅をしてきた家来たちを労い声をかける。 「はるばるご苦労でしたね。東アジア情報局局長、セルゲイ・ラクスマン。会合がこのような場所で申し訳ありません。JCIAの監視の目をかいくぐるためです」 麦藁帽子の少女は、ファイルされた資料、論文集、学会誌などが散乱した部屋を見て苦笑する。 「キロリン、部屋はもう少し片付けておきなさい」 「もっ、申し訳ありません。これでも少しだけ片付けたのですが……」 顔を少し赤らめ、縮こまる准教授を横目に、少女は男たちの方に歩み寄る。 ひざまずく男たちに、麦藁帽子の少女は「良い子良い子」をするように頭を撫ぜ、その丸い眼球からは涙が洪水のように溢れて気化していた。 彼らの目に例外なく、少女の笑顔が焼き付いた。涙が眼球に蓄積して、神経の内側に巣食う。 「天球星霊教会のネットワークは、本日を持ってソ連の対日ヒューミント網と完全にリンクします。報道機関、省庁、政党、財界、学会、全ての駒の情報を全て貴方たちに提供しましょう」 少女は無邪気な笑顔を浮かべながら椅子にかけ、ブランド物の靴下をゆっくりと脱いだ。汗で微かに湿った細い足は、ふくらはぎにやや肉が付いた程度で、力を入れれば折れそうな危うさがある。 「提供してあげるからには、失敗は許されません」 少女の天使の笑みが、ここで愉悦に歪んだ。 まるで虫を踏み潰して力を示す子供のような、残虐な無垢さが現れる。 「『最後の審判』作戦――日本壊滅を実行に移す日には、お前たちの働きがいる。国内で最初に攻撃を仕掛けるのは私たち、最後の仕上げはお前たち」 「理解しております。我々は全てそのためにここにおります」 「まぁ、お前たちの飼い主も既に私の犬だから、お前たちはもう死んでもいいんだけどね」 「貴女様が……そうお望みならば」 「じゃあ死になさい。よし、ペロペロキャンディーを喉に刺して窒息死の刑」 「は、はああああっ!」 アジア人の1人は涙を流しながら地を這いずり、涙を流して悦びを表現する。 少女に声をかけてもらえたことを喜びながら、未来の自分の死を受け入れていく。怖くはない。恐れもない。眼球の内側にいる『神』の存在が励ましてくれるのだから。 「舐めなさい」 「は、はい……」 汗で湿った指先を突き出すと、セルゲイは犬のように目を輝かせて少女の足を舐める。 「お前たちが後々でこの島国をどう利用するかに興味はない」 少女の眼球には異様な文様が浮かび上がり、流れ落ちた涙が気化して部屋中に満ちた。 「300年に渡り魔法で汚染され、中枢まで侵食し尽された島を核の炎で浄化するのなら、後は赤旗でも何でも立てるが良い」 「有難き幸せでございます」 セルゲイはとろんとした顔になり、少女の涙に包まれながら、少女の前に日ざまづく。 「そのときには、私は世界の支配者になっている。この能力があれば何だってできる」 少女は無垢な瞳を奴隷に向けながら、天使の微笑を再び見せた。 零れ落ちる涙が、男の精神を蝕んでいく。 「貴女様こそが、世界の支配者となるべき御方です。浄江見聖光霊母様」 「そういえば」 キロリンと呼ばれていた准教授が久々に声を出した。 「先月、霊母様が飛び降り自殺をするよう命じた娘ですが、A市のビル屋上で白骨死体で発見されたという情報が入っています。命令を実行しようとして、何かの事件に巻き込まれた可能性が」 キロリンは少しだけ沈黙して、報告を再開した。 「ただ、地元新聞社にいる信者が数日後に警察署の火災に巻き込まれて死亡し、他の信者はマンションから転落死。上手く情報が集まりません。少し妙なことに」 キロリンの報告に少女の天使の顔が少しだけ曇る。 「それって、『誰が一番すごく自殺できるか』って命令した連中の1人でしょ? そんなの、もうどうでもいいよ。たいして面白くなかったし。すっかり忘れてた。みんな死んだのかな」 眼球の中からか呼びかけてくる少女の影に導かれて、屋上に昇った少女に何が起きたのか。自分だけにしか知覚できない神の声に導かれた少女に、『神』である少女は何を思うのか。
11:24。東都西大学_工学部シャトルバス停留所
空は雲1つ無い快晴で、ハンカチで汗を拭う者もまだ多い。 難しい顔でレジュメを凝視したり携帯を弄っている学生たちが、バスを待って列を作っている。11:25に到着するバスに乗り、別のキャンパスに向かうつもりなのだろう。 そんな彼らを眺めている1人の女性がいた。 薄地のシャツを着て、ブロンドの髪を触りながらぼんやりとバス街の列を観察している。年齢からして学生だろう。彼女は何かをするわけではなく、何かを待つわけでもない。 ただ、何もせずに学内に待機するよう命令されているので、その命令に従い何もしていない。今も偉大なる存在からの命令が届いている。 ――彼女の右目の眼球のレンズには、麦藁帽子を被り白いブラウスと赤いスカートを履いた少女が焼きつきていた。 半透明の少女は視界一杯に広がり、バス停の光景と重なり、待機命令を下す。 サークルの部屋で遭遇した少女の、気化した涙が眼球に侵入して蓄積し、呪縛と化して誰にも気付かずに彼女の精神を汚染していた。 そして、百年以上昔の先祖に偶然混ざった『特殊な血統』の効果を引き出され、彼女は人間を越える能力を持つ怪物に変化していた。 『バブルボムズ』――それが便宜的に付けた彼女の能力名。 シンプルなのが彼女の好みだ。 偉大な神である麦藁帽子の少女が仲間との極秘会談を行っている間、もしもそれに害を為す存在が現れた場合、彼女たち兵隊はその身を挺して敵と戦わなくてはならない。 学内に潜伏しているサークルの仲間は対戦車用ロケット弾、機関銃、手投げ爆弾を与えられて学内に拡散している。そして『敵』が現れるや一斉に攻撃を開始するのだ。 彼女と同様に能力を覚醒させられた男性――能力名『ザクドスザクドス』。能力名のセンスの無さは、偉大なる主を守るための問題ではない。
「運が良かったわね。貴女たち」
そして、怪物と化した女性の前に、永山洋子は立っていた。 左から歩いてきたとか、右から歩いてきたとか、過程を省略するように、まるで瞬間移動でもしたかのように、その場に現れた。 「……」 『バブルボムズ』の女性は特に反応することも無く、ぼんやりと洋子を眺めるだけである。 設定されているキーワードを口にするか、直接危害を加えない限り、彼女は反撃しない。そして彼女を刺激した瞬間、大学中で『天球星霊教会』の尖兵と化した人間と異形が暴れ始めることになる。 徹底的に、完膚なきまでに――大学中の人間は殺し尽される。 ただし、これを行うのは『天球星霊教会』ではなく『統勝全教会』なのだ。 彼女たちは周りの殺戮し、自殺するか逮捕されるのが存在意義なのだ。外敵を排除するため、そして裏に潜む宗教団体の関与を隠すために 「私が洋子を止めなければ、複数の魔法改造人間の乱戦が始まっていたわ。危なかった」 無限が洋子の背中から顔を出した。 「あのソ連の犬たちは、この大学にポータブル核爆弾を持ち込んでいる」 白い肌に口紅で書いた口を歪めて、にやにやと嗤う。 「いくら何でも、ここで核爆発はマズイわ」 「いや、でも、仮に爆弾が作動しても、処理できる能力者はいるじゃん」 「失敗したら、皇線学園が放射能で汚染されてしまう」 無限の優しい、しかし断とした口調に洋子は降伏した。 異形の少女と、どこにでもいるような少女はにこやかに物騒なことを言う。 「『ネオID計画』に支障が出る可能性もあるなら仕方が無いわねぇ……なかなか面白いことになると思ったのに残念。まぁいいわ。今やこの国は、どこを見ても魔法改造人間で満ちている。境界を薄め、均衡を破る爆弾は無数に転がってるし、くすくすくす、今回は何もせず、退くことにするわ――」
「…………」 『バブルボムズ』の女性が我に返り辺りを見渡すも、そこに洋子と無限の姿は無い。 シャトルバスがエンジンを吹かして動き始め、学生たちは本を読んだり友人と談笑しながらそれぞれの時間を過ごしている。 そこにはいつもと変わらない、平和な風景が広がっているだけである。 「…………私、どうしてここにいるんだろう?」 女性は戸惑いながら周囲を見渡して居場所を確認すると、首を傾げながら人ごみの中に消えていく。自分の居場所であるカルトのサークルに戻るために。 かくして何事も無く、変哲も無き平和な日々が、今日もまた、当然のように続いていく。
第二部 了
『救世主ミリルのお仕事』 第2章 −花の騎士の誕生− 2-1「少女の願い」 2-2「花の騎士の誕生」 2-3「クラドスボリーム」 2-4「白濁の敗北」 2-5「芽吹く野望」 2-6「殺戮の種」 2-7「滅びの花」(現在ページ) 『救世主ミリルのお仕事』 第3章 −甲世の城− 3-1「蟲の穴」
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