公立高校ならば放課後と呼ばれる時間帯すらも終わる頃合、皇線学園では数学と英語と日本語の特別講義がようやく終わる。放課後は大学と同じように講義形式のシステムを導入しており、分野別に弱点補強、または学力向上のための集中講義が開かれているのだ。 自由を謳う校風とはまた別の、私立の進学校としての顔がそこには存在していた。 (あーあ、また、できてないの私だけだったりするのかな……) シャープペンシルで答案用紙をコツコツと叩く。 立花あざみは渋い顔で教師が黒板に書いている図を眺めていた。サッカーの授業では、転倒し続けた由香里を励ましていた少女も、ここでは由香里と同じ状態だった。 数学と物理で転倒の連続、つまり学業での挫折である。 もともと文系科目が壊滅状態なので理系に進んだあざみだが、理系科目も文系よりマシだというレベル。全壊してなくとも、半壊すればその家にはもう住めない。
カツ、カツ、カツ。 チョークが黒板に擦り付けられる音が、教室に虚しく響いている。
黒板では複雑と思われたベクトルの問題に、XとYの座標を与えられていた。 特に処理が難しい部分に原点(0,0)が与えられ、別のベクトルがx軸にされた。複数の点でy成分が0である幾何の問題。複雑なベクトル処理は、単純な計算問題になった。 ノートに写してはいるが、この問題が自力で解けるようになるとは、あざみには思えなかった。 そんな自分が想像できないのである。 (こんなの思いつくわけないって……) ベクトルのまま計算を進めれば、泥沼の煩雑な計算をしなければならないが、座標を与えてやれば単純な三角関数の問題になる。入試数学の典型問題の一つだが、当然のことながら解法の指定などは無い。気付くか気付かないかで負担は相当異なってくる。 問題には出典として、出題された中堅私立大学の名前が書かれていた。 あざみが志望する某国立大学より遥かにランクは落ちる。 (絶対に無理。はぁ、授業ついていけないし、本当にどうしよう……) 背伸びして皇線学園に入ったが、体育以外ではあざみのレベルは平均以下どころか最下位から数えた方が早い。そして体育の成績だけで大学に入れるほどの能力はない。 (こうなったら、冗談抜きで変身して入試受けようかな……)
「変身」して「入試」。 仲間たちに笑って却下された案を、あざみは再び真剣に考える。
それは変身して、一芸入試で合格を狙うという計画だった。 ここでのあざみの「変身」とは、仮装や変装の類ではない。 理論不明の力によって身体能力を強化する、武装を施した衣服を身につける、人間を遥かに上回る戦闘および回復能力を有した状態になる、等の、アニメなどで頻繁に行われる「変身」。 それが今のあざみには可能だ。 変身後の姿も悪くはない、というか、見栄えはかなり良い。
(でも、面接官の前で、 「私は花の騎士エルドルです」とか言うのか……)
花の騎士エルドル――。 あざみは今、現在進行形で変身能力を持つ異能者なのである。
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あざみが、『花の騎士エルドル』に変身できるようになったのは、一年ほど前のことである。 ある日、由香里が手入れをしていた花壇で、いきなり花の妖精を名乗る異形に遭遇したのだ。 それは人間の姿をしていたが、コップに入るほどの小人だった。
花の妖精の話を要約すると、この世界には花を貪り食うクラドスボリームという魔物が存在しており、それを放置しておくと世界中の花が食べ尽くされてしまう。 しかし、花の妖精には直接彼らと戦う力が無い。 だから人間を「花の騎士エルドル」に変身させ、代わりに闘ってもらう、とのことだった。あざみが戦ってくれないと、学園の花壇は全て食べられて消えてしまうという。 しかし、もし、そうなれば、花壇を大切にしていた由香里は泣いて悲しむだろう。心や優しい友人は、花や虫の死で本気で泣いてしまう。演技ではなく、悲しんで泣いてしまうのだ。 それを彼女の優しく、そして脆い部分だとあざみは思う。 あざみが妖精の願いを受け入れたのは、友人が気にかけてる花壇を守るのが理由だった。
しかし、あざみは自分で自分を立派な人間だとは思わない。 むしろ、それは偽善に近い感情である。 親友より上位に立ちたい。 親友の花壇を守ることで、立場をさらに上にしたい。 元よりあざみは、自分を由香里より上の立場として見ていた。 自分の心の中に、そのような理屈が働いていることがショックだった。 気付いてしまいたくなかった。 それは酷く醜く汚いものに思えた。傲慢。優越感。 友人とは何か。 自分は彼女がどうして必要なのか。考えれば考えるほど、苦しくなった。 動機はますます不純で不透明なものになり、最近はもう考えるのを止めてしまった。
日常生活において「変身」することは滅多にない。 敵対するクラドスボリームも、出現頻度は数週間に一回有るか無いかのものである。しかも、最近はなぜか土曜日の夜にしか出現しないので、学生生活への影響も少ない。 エルドルのことは、他に3人いる仲間以外には、由香里にさえ秘密にしている。 信頼できる友人にも秘密にする最大の理由は、能力の強さ。 基本的に花を守るための能力だが、人間相手でも十分強大、いや脅威的なものなのだ。 実際、あざみが今、ここでエルドルに変身して能力を使えば、教室にいる人間を殺害できる。そんなことができると知られるだけで、恐れられるかもしれない。 能力を秘密にすることは4人のエルドルの間で決められた約束事だ。 (あー、やっぱりエルドルに変身して入試とか無理だわ) もっとも、あざみには、危険な発想がそもそもない。 そういう思考が出てくる種が、彼女の精神には埋まっていないのだ。 何か武器があれば、人間を殺せる。 強力な爆弾があれば。 銃があれば。 同じことをしている人間がいるから。 それが存在するから、やってみたくなった。 あざみは、報道番組に溢れている、手段があれば目的が生まれる、という考え方をとても嫌っていた。 エルドルは敵対する存在と戦う能力だ。 それは武力であり、否定できない。 しかし、非現実的な戦闘能力があれば、人間や動物で試してみたくなるか? 答えはもちろん、なるわけがない。 どうして無関係の存在を攻撃するのか。 それはとても酷い行為だ。 能力に欲を起こすことはあっても、現実では行わない。 バランスこそが、最も大切なことだと考える。 その意味で彼女はとても上手に、自分の能力を扱えていた。
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(そう言えば、由香里には花と会話ができるって噂があるけど、あれって本当なのかな?)
由香里は一見普通の少女だが、話してみるとすぐに変人だと分かる。 何も無いところで転倒するなど、人格とは関係ない面もあるが、当人のキャラに因るエピソードも多い。
その典型例が、彼女は『花』と会話ができるというものだ。
本人は誤魔化し、誤魔化し、で認めていない。 しかし、会話している姿を、たまに目撃されたりしているという。 もっとも「花とは会話ができるが、人間とは会話ができない」という困った方向ではない。 実際、花と会話云々も直接真偽を問う者は滅多におらず、伝聞より推定のみで成立した噂話である。 内容として直接話題にしにくい面もある。
(本当に花と会話ができるなら、エルドルに向いてると思うんだけどなぁ。やっぱりこけるから駄目?)
花の妖精の敵である、獣怪クラドスボリームとの戦闘中。 変身して二歩進んで転倒し、 ジャンプして着地して転倒し、 攻撃を避けて転倒し、 武器の聖剣を振るって転倒する。 ……想像してみたが、敵に勝てる気がしないのは確かだ。 ちなみに、性格が好戦的かどうかは大きな問題ではない。 隣のクラスの双子の山咲姉妹も、部活の後輩で近所の八百屋の娘の国城も、エルドルであるが、彼女たちは穏やかな性格で、物理的な喧嘩とはほぼ無縁だ。
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(こけちゃうのはなぁ、由香里の場合、注意力が足りないってレベルじゃないね) そう言いながら、チラリと横を見るあざみ。 そこには、まるで目の前に花畑が見えているかのように、ニコニコしている由香里の姿があった。 アメーバのようなキャラの落書きがされているプリントには、満点を示す数字が大きく書かれている。ノートには何も書かれていないが、普段の彼女はきっちりノートをとっている。 あざみが手の足も出ない問題も、由香里としては簡単なものだったらしい。何しろ、ノートに書くべき情報さえないのである。 由香里は基本的に、自分の知らないことしかノートに書かない。そんな当たり前のことが当たり前のようにできる、あざみにとって由香里のその行動は、少し劣等感を感じさせるものだった。 「はあ、あの問題の解き方を思いつくやつ、やっぱりいるんだなー」 「え、どうしたの、あざみちゃん? どうしたの、どうしたの?」 あざみの視線に気付いた由香里が、満点のプリントとペンケースといっしょに近づいてきた。 彼女は知っていることしか言わない講義に退屈していたらしい。 知らないことしかなくて退屈しているあざみとは大きく違う。 「もしかしなくて、また私のおでこに、ご飯粒が付いてたりする? どうしよう、恥ずかしいよ。おでこにご飯粒つけて歩いていたなんて。これからご飯粒マンとか言われるかも」 「ご飯粒はさっき指摘したでしょ。もうどこにも付いてないよ」 「じゃあ、どうしてこっち見てるの? 講義中なのに」 「それはね、あんたの頭の中身が気になったから」 「え、ええ。私、それは初めてなの。どうしよう。頭の中身を見せるのは、ちょっと難しいんじゃないかな。たぶん、できないこともない、いや、できると思うけれど、あ、これ内緒だよ。でも、それをやっちゃっうと私、かなり乱れちゃうから、やだなぁ。恥ずかしいよぉ」 よく分からないことを言う由香里。 以前に耳を弄られると感じてしまう、と彼女が漏らしたことがあるのを、あざみは思い出した。 耳くそを出せと要求されたと勘違いしたのかもしれないが、特に確かめたいとも思わなかった。 「由香里が何を想像して、言葉をどう解釈してもいいけど、それって間違いなく誤解してる。うん、誤解だ誤解。誤解しまくりだよ、あんた」 「あの、長くて細いの?」 「ゴカイだね。それも」 あの細長い虫のことだ、と思い、あざみは答える。 「そうだよね、あざみちゃんはそんな酷いこと言わないよね。プラトニックなタイプだもの」 「はいはい。由香里は今日も元気よねぇ。飛躍も三倍増しかな」 あざみは由香里の笑顔を見ながら、呆れたように笑う。 彼女の思考がどのようにワープしていくのか、一度見てみたいのはあざみの本音だ。三秒ぐらいで月まで行けるほど、論理の飛躍が激しいのだろうと思う。 そんなことを考えているうちにチャイムが鳴り、皇線学園の5月14日は終わった。
平和な5月14日が、終わり、 そして、戦争の5月15日が始まる。
第5章、了。
『救世主ミリルのお仕事』 第5章 -5月14日 戦争前日- 5-1「左右の鏡」 5-2「心の麻薬」 5-3「ウソとホント」 5-4「言葉の意味」(現在ページ)
『救世主ミリルのお仕事』 第6章 −自爆スイッチ事件− 6-1「人間爆発」
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